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唯一無二の存在感で熱狂的なファンを持つ沖縄出身のシンガーソングライターCoccoと『鉄男』シリーズの鬼才塚本晋也監督が作り上げた衝撃作『KOTOKO』。完成したばかりで出品した第68回ベネチア国際映画祭では、スタンディングオベーションで熱狂的に受け入れられ、オリゾンティ部門グランプリを受賞した作品だ。音楽から企画、原案、美術まで担当し、初主演を果たしたCoccoと本作を作り上げる過程や、その中でのこだわり、本作で描きたかったことなど、キャンペーンで来阪した塚本晋也監督にお話を伺った。

 

━━━Coccoさんと一緒にやることになったきっかけは。

CoccoさんのPVを撮ってた監督やドキュメンタリーを撮っていた監督が集まってCoccoさんの短編を撮るという企画『inspired movies~Cocco歌のお散歩』(10)に参加させていただき、その作品を気に入っていただいたのが直接のきっかけです。前からCoccoさんと映画をやりたいと言っていたので、「今だったらできるよ。」と声をかけてくれました。それ以前にも『ヴィタール』(04)に出てくるヒロイン像にCoccoさんを重ね合わせていて、その世界観を見てもらおうと台本をお送りしたら、Coccoさんから自宅でギターを弾いた歌が送られてきて、それがきっかけでエンディングに使わせてもらったりもしています。

━━━Coccoさんに初めてお会いになったときの印象は。

ちょうど活動休止をされた後、ゴミゼロ大作戦というイベントに参加されたときに挨拶に行ったのが初対面で、すごく緊張しました。Coccoさんがデビューしたての頃から歌と存在感、歌っている詩の世界にインパクトを受けて、ずっと興味がありましたから。実は『BULLET BALLET』(98)を描くときにもCoccoさんのイメージを投影していたんです。肝心のCoccoさんのほうは、「やっと会えたね。」みたいな明るい感じでしたね。

━━━お二人でどういう形で作品を組み立てていったのか。

Coccoさんにインタビューを繰り返しました。最初に「私は二つ見えるんです。」という話を聞いて、それ以降はメールで事実の描写や詩のようなものをいただきました。本当と空想が入り混じった混然としたものをたくさん浴びながら、徐々に物語にしていきました。

━━━母子の物語にしたのはなぜか。

『inspired movies~Cocco歌のお散歩』を撮ったときに、自分が母を7年介護した直後だった関係で、Coccoさんと母の話をしたことがありました。僕は母とべったりでしたが、Coccoさんはお子さんとの間に距離を感じたので、その距離は何なのかを探る旅にしました。最後には両方とも違う形で深い愛情があることに変わりはないことに気づくまでの旅でもあったのです。実際にCoccoさんからいただいたエピソードを母子中心の話にして、Coccoに意見をいただきながら書き直し、今の形になりました。駄目なところはちゃんと言っていただいたので、出来上がったときにはCoccoさんの中で琴子が一本化した揺るぎないものになったと思います。

━━━Coccoさんに言われて一番印象に残った意見は。

暴力的な描写の場面で、こちらはCoccoさんのファンのことを考えて、緩和した表現にしようとしたときに「緩和してはいけない。」と言ってくれました。緩い暴力の表現は暴力を肯定することになります。これは暴力をファンタジーで描くのではなく、完全に暴力を否定する映画だから「徹底的にやった方がいい。」と言われたことが一番大きかったです。今までの『鉄男』は、人間の中にある暴力性をきれいごとで隠すのではなく、想像の世界はエンターテイメントとして表現したのですが、そういう類の暴力ではないんです。本当にイヤな見たくないものをやるということです。

━━━クランクイン直前に震災が起こったことで、作品自体に影響はあったか?

子どもが登場するシーンがあるので、かなり難しいこともありました。自分の周りのお母さんもすごくエキセントリックになる人がいるので、琴子のイメージとすごく重なったんです。脚本は全く書き換えていないのですが、自然に重なり、こういうお母さんたちの気持ちにガッチリ入り込んで作ってきた映画だと思います。

━━━即興的な演出のようにも見えたが。

即興的に見えたのは沖縄でのシーンがあるからだと思いますが、基本的にはコンテがちゃんとあって脚本通りのセリフを言っています。Coccoさんにインタビューで聞いたことを起こしたセリフだから実感を持って言えるというのが基本にありますね。田中としゃべっていて自傷するシーンやベランダで父のことを話すシーンは、即興的なアドリブというよりは、自分で話すことを決めてきたアドリブです。沖縄は子どもと仲良くなるまでという課題があって、それをCoccoさんが自由演技でやっています。カット割りも実はオーソドックスです。Coccoさんも「人生を注いだ。」と言ってくださっている通り、ドキュメンタリーではなく人生のありようを投影したフィクションです。

━━━Coccoさんの演出で心がけたことは。

本番で本当の感情を出すような演技をされる方で、リハーサルではそういう演技はされないので、なるべく本番になるまでに細かい段取りを積んで、本番に集中してもらうようにしました。そのときやっている感情はホンモノなので、リハーサルで何度もやってもらうのは逆に申し訳ないのです。

━━━塚本監督演じる田中はどういう考えから生まれたキャラクターなのか。

元々は、インタビューでCoccoさんが巨大な喪失感を抱えているように感じたので、映画の中盤で巨大な喪失感をもたらす、救世主じゃない意味合いで作った役なんです。でも田中を自分が演じる段階で、最後の喪失感は全く関係なく自分がCoccoさんをリサーチするように、キャメラ、田中が三者一体となって現場でもリサーチしていくような役柄になっていきました。実際、田中を自分が演じると思っていなかったのですが、Coccoさんも現場の人数を増やしたくなかったし、僕も集中したかったのでほかの俳優さんを呼ばないようにしたのです。Coccoさんにこの役をやれと後押しされた形でやっただけで、『鉄男』のときみたいに、「絶対に俺がやるんだ!」といった気持ちや役者としての野心や野望全くなしに、ただ琴子に寄り添いました。Coccoさんが後押ししてくれた大事な役なんだろうということしかなかったです。

━━━本作での暴力描写はどんな意味を持つのか。

今度の映画を作る発動力となったのは、「戦争が怖いという映画を作りたい。」という想いでした。暴力とは主人公に襲いかかる戦争のようなものです。戦争では自分の子どもが奪われてしまうことが一番怖いので、子どもを守ることに神経質になってしまう。琴子はその気持ちを投影している役です。戦争は絶対暴力なので、それがきたら絶対に復活できなくなります。だから、「それはダメだ。」ということを恐ろしいまでに描きました。田中さえも離れてしまうぐらい、絶対に近づけないのです。

━━━母と子の関係は本作で描かれるようなあらゆる恐怖を越えるのか。

映画で主観が移るというのはとても大事なことで、最初はずっと琴子が主観で躍起になっているのですが、だんだん子どもが主観になります。子どもが琴子を守る立場になるから大丈夫ですよ、とCOCCOさんにエールを送りたいという感じでしょうか。

━━━監督がこれから描きたいと思っている題材は。

今は来るべき戦争に対する恐怖が大きいです。子どもだけでなく、大事な人を守るのが難しい時代に、それでも大事な人を守らなければいけない。本を読んで調べているのは第二次世界大戦で、いつかはこれを題材に映画を作りたいと思っています。後は真逆ですが手作りアニメも作ってみたいかな。

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『鉄男』シリーズの印象からか、強面のイメージを抱いていたが、いたって自然体でかつCoccoに対する敬意の念が随所に感じられた塚本監督。今までの暴力描写とは違ったエンターテイメントではない戦争のような暴力で、絶対にあってはならないものを敢えて描き切った背景にはCoccoの強い意志が反映されている。運命的な二人が作り上げた魂の映画は、恐怖に満ちた現代に生きる私たちに衝撃と共感をもたらしてくれるだろう。(江口由美)

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第7回大阪アジアン映画祭のコンペティション部門出品作品、香港映画祭上映作品となったキャロル・ライ監督の『二番目の女』。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2002で審査員特別賞を受賞した『金魚のしずく』、日本で劇場公開されたカリーナ・ラム、リゥ・イエ主演の『恋の風景』と女性監督ならではの繊細な描写に定評があるキャロル・ライ監督の最新作が海外初公開され、大いに会場を沸かせた。

双子の美人姉妹と二人が愛してしまった男をめぐるラブサスペンスを、現実と劇中劇を交錯させながら美しくもミステリアスに描いた本作。一人二役に加え、舞台劇でも二役をこなしたアジアンビューティー、スー・チーの熱演や、舞台劇もこなしシリアスな演技を披露したショーン・ユーの新しい魅力を堪能できる作品だ。

第7回大阪アジアン映画祭および香港映画祭のゲストとして来阪したキャロル・ライ監督に本作の着想や、香港映画界の今について話を伺った。


 

━━━本作の着想はどこから得たのか。
私には双子の友達がいるのですが、お互いの友達が間違えるので、最終的に二人とも間違えられても「そうよ。」と答えるようにしているという話を聞いたのです。その状況が面白いと思い、本作の構想が浮かんできました。

劇中劇を取り入れたのも、舞台の話と現実の話の二つがあって、舞台のストーリーが二人の状況に繋がっているので両者を融合させました。女優が何かを「演じる」ということが主題にもなっています。

━━━劇中劇は元々ある作品なのか。
『再世紅梅記』という越劇(広東オペラ)で、香港人なら誰でも知っている有名な作品です。古典作品なので、せりふ回しを現代風にアレンジし、北京語に変えています。

━━━スー・チーの一人二役ぶりが見事だが、出演するにあたってのエピソードは?
脚本を見せた時点で面白そうだと思ってもらえました。山口百恵が双子の姉妹を演じた『古都』(80市川崑監督作品)をスー・チーさんに見せ、こんな感じで演じてみてはどうかと打診したところ快諾してもらいました。

━━━どのようにして双子姉妹のキャラクターを作っていったのか。
もともと細かく姉妹の設定をしていました。姉は優しい性格で妹を大事にしているし、妹は奔放で野心が強い。スー・チーさんはトップクラスの女優で理解力も高いので、設定を読み込んでご自身でキャラクターをしっかり作り込んでいきました。

━━━ラブストーリーでのショーン・ユーのシリアスな演技が新鮮だったが、
ショーン・ユーさんは見た目は現代的ですが、時代劇にもマッチするルックスです。本作では時代物の劇中劇を披露するので、時代物の装束をつけてもかっこいい彼を起用しました。

━━━ 一貫してモノトーンな姉妹や劇中劇の衣装が印象的だが、衣装、美術に関するこだわりは?
本作では美術、衣装にもこだわっています。衣装担当には「シンプルで、かつ華麗な感じ」と指示をしました。キーカラーを赤、黒、ゴールド、白の4色に決め、そこからあまり離れることのないようにしました。

基本的には無地の衣装が多いですが、冒頭で姉が着用する花柄のワンピースが登場します。水中シーンにも使われているのですが、ここでは水の中でも写りのいいワンピースを衣装担当がわざわざ選んでくれました。


━━━今の香港映画界はどんな動きになっているのか。
今の香港映画界は大陸と合作の作品ばかりになっています。香港だけで作っている作品はほとんどない状況です。ジョニー・トー監督やイー・トンシン監督もしかりですが、香港市場が小さくなっているので、合作でないと成り立たないのです。また、大陸では審査があるので、どうしてもそれに合わせた描き方になってしまいます。

━━━大陸ではどんな映画が望まれているのか。
私もまだ模索中です。『2番目の女』は香港に先駆けて大陸で公開したので、すでにネットで評判が出回っており、高尚な趣味の方には受け入れられているようです。大陸の観客の大半は、まだ映画を見る水準が一定のところまで達していません。香港人だと音がいい、映像がきれいといった部分まで見ますが、大陸の人はまだストーリーとセリフに重きを置いていると思っています。

━━━最後に本作で監督が描きたかったことは?
女性の微妙な心理を描いています。そして常に誰かと比較してしまうような、人間としての微妙な心理を描いているのです。

 



 

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観客とのディスカッションに引き続き、A.L.ヴィジャイ監督、ヴィクラム氏に二人が一緒に映画を作ることになったきっかけや、クリシュナの人物像をどうやって作り上げていったのか、さらにインタビューで話を伺った。


━━━ヴィクラムさんとA.L.ヴィジャイ監督が一緒に仕事をすることになったきっかけは?
監督:ヴィクラムさんは超多忙な人気俳優なのですが、3年前、ヴィクラムさんに時間ができたとき、すかさず「あなたがこの映画をやらないなら、私は監督を辞めます。」と強引にオファーしました。素晴らしい役者でないと撮れない映画です。電話でヴィクラムさんから「やりますよ。」と言われたときは奇跡が起こったと思いました。本当に夢が叶いました。

ヴィクラム:ヴィジャイ監督は、映画としてはこれで4本目なのですが、南インドの若手の中では一番実力がある監督です。彼の映画は映像がとても素敵だし、彼自身がとても純粋なので、作品の純粋さは彼のキャラクターからもきているんです。彼の前の作品を見て「若いのにすごいな。」と思っていたので、オファーが来たとき是非一緒にやりたいと思いました。一つ一つが大人っぽいニュアンスのある映像を盛り込まれた作品が作れるのは彼しかいないです。ヴィジャイ監督の次回作も是非やらせてくださいと言いました。役者が一人の監督とずっと組んで仕事をするのは微妙に難しいところがあり、普段はやらないのですが、彼の腕を信じているから、今も二人で撮影しています。


━━━ヴィクラムさんはA.L.ヴィジャイ監督をかなり評価しているようだが。
ヴィクラム:彼の作品はそれぞれ全然違います。アクションも撮れば、真面目なものも撮りますし、本作のような映画も撮っています。3本目の映画は時代劇でした。時代劇を撮るのはとても難しいのですが、2ヶ月で撮影し、それが成功したというのも彼の実力を示していると思います。

━━━主人公クリシュナは心底ピュアな人物に仕上がっているか、これは監督のアイデアか、それともヴィクラムさんのアイデアか。
ヴィクラム:ほかにも優秀な監督はいますが、彼らにはこの作品は撮れません。心の底からイノセントでないとこの作品は撮れないんです。小雀のエピソードや、信号が赤になるまで何があっても絶対に待っているとか、これらは本当に監督そのものです。絶対に間違いを犯さない。社会的に全てを考えた上で行動を起こす人なのです。

監督:クリシュナというキャラクターのアイデアはあったけれど、どうやって撮ったらいいのか分からなかったんです。どんな感じで、どういうジェスチャーでクリシュナを演じてもらうかも分からなかった。そんな中、ヴィクラムさん自身がこれらの宿題をもって様々な知的障害者のセンターを訪ねたりしながら、クリシュナの動きを全部自分で作り上げてきたのです。ヴィクラムが初めてクリシュナとしてシーンに出てきたときは、びっくりしました。自分が思い描いていたようなキャラクターそのものだったのです。

 ヴィクラムさんがそうやってクリシュナを演じることで、重ねて次を考えられるようになりました。最初の10日間は私もパニック状態で、セリフをどうしようか迷っていたのです。でもヴィクラム自身がアドリブを言う場面(冒頭の女性弁護士と会話するシーン)を聞いた上で、私もセリフを考えたりしていきました。まさに二人で作ったクリシュナ像ですね。

━━━父と娘の間に流れる愛が本当にうまく描かれているが。
監督:ニラ役のサラちゃんも、私が撮れたのは50%だけで、残りの50%はキャメラの後ろで起こっていたことなんです。ヴィクラムさんは自分の演技だけでなく、サラにもたくさんのことを教えてあげていました。キャメラの後ろで父親役のヴィクラムとたくさんコミュニケーションをとったからこそ、あんな素晴らしいニラを演じることができたんです。本当の父と娘の気持ちになって二人がキャメラの前に現れていました。

━━━本作では、インドの保護者法についても若干触れているが。
監督:障害のレベルによってですが、親権について訴えられたら、最終的には法廷で決められてしまいます。クリシュナもチョコレート工場で働いてはいますが、教えられたことはできても、少し違うと対応できなくなってしまいます。この状態で親権を持つのは難しいのが現状です。

━━━今のインド映画業界はどんな動きが起こっているのか。
監督:インド映画といっても、いろいろな言語で作られているので、民族や習慣に近づいて映画を撮っています。全体でインド映画は年間800本以上作られています。インディー語やタミル語など様々な言語で作られており、技術的にもハリウッドには負けていません。タミル語の映画は内容がインディー語圏の映画よりも深いので、インディー語圏でタミル語映画のリメイクをされることもあります。インド映画産業全体でみても、すぐれた映画音楽家や監督やキャメラマンは、結構タミル語圏から生まれているんですよ。


インド映画界きっての名優ヴィクラム氏がその才能を認める若手注目株のA.L.ヴィジャイ監督とのまさに二人三脚で誕生した『神さまがくれた娘』。本作を経てさらに次回作へと映画を生み出すお二人が、映画のことを通じてお互いの素晴らしい点を次々と挙げる姿に、心底信頼し合っている様子が伺えた。日本語で「おおきに!」と挨拶するなど、サービス精神旺盛ながらもスターの貫録を見せつけたヴィクラム氏の来阪に、グランプリ受賞が大きな華を添えたことは言うまでもない。そして、インドから生まれた新しいゴールデンコンビの次なる作品にも大いに期待したい。

 

mugon3.jpg全3部545分に及ぶ、衰退する軍需工場と街や労働者を描いた『鉄西区』で山形ドキュメンタリー映画祭最高賞をはじめ世界の映画賞を獲得し、その存在を知らしめた中国のワン・ビン監督。初の劇映画となる『無言歌』全国順次公開、および全作一挙上映企画に合わせて初来阪し、未だ中国のタブーである反右派運動をテーマにした『無言歌』のインタビューに応えてくれた。

 

━━━『無言歌』のテーマである反右派闘争は監督が生まれる10年ぐらい前の話ですが、かなり以前から興味を持っていたのですか?

この映画を撮る決定的な動機となったのが、ヤン・シエンホイさんの小説『夾辺溝の記録』を読んだことです。この小説で書かれていた様々な人物や運命に大変感動を覚えました。実は小説を読む以前にも反右派闘争について知っていました。自分の身の周りにも、1970年末から1980年初頭にかけての文化革命時の右派が存在しています。

そして、この映画を撮るきっかけが立ち上がってから様々な準備を始めました。主に夾辺溝事件と呼ばれるこのときの事件について、様々な資料集めをし、数多くの人にインタビューしていきました。生き残った人たち、家族の人や当時の収容所の看守の人たちのインタビューを通じてより具体的に当時の事件を知ったのです。

反右派闘争のプロセスについては、90年代はじめから約10年間にわたって、右派分子と呼ばれた人が、当時の反右派闘争を振り返って書いた本が多数出版されました。映画の準備に入ってからこれらの書籍を読み、だんだんと反右派闘争の映画が撮れると自信を持ったわけです。

 

━━━.今回ドキュメンタリーではなく、劇映画として撮った意図は何ですか?

劇映画とドキュメンタリーに分かれてはいますが、学校ではほとんどフィクションを勉強しました。撮り方もフィクションの勉強をしたのですが、卒業してからフィクションを撮るような資金はなかなかなかったので、比較的資金がなくても撮りやすいドキュメンタリーに入っていきました。03年ぐらいですが『鉄西区』を撮ったあとで、『無言歌』ではない別の劇映画を撮る企画があり、その脚本を書くつもりでパリに飛ぶ飛行機でこの『夾辺溝の記録』を読んだのです。小説にとても感動したので、前の企画は置いて、この『無言歌』を撮ろうと決めました。

━━━反右派闘争は中国でタブー視されているようですが、原作の『夾辺溝の記録』の出版時の状況はどうだったのですか?

原作『夾辺溝の記録』は、出版されたとき苦難に見舞われました。短編集ではなく、短編をポツリポツリと時間を置いて一作ずつ文学雑誌に発表する方法をとりました。19の短編を集めて出版されたときは発禁になりましたが、出版社を変えてまた出版したのです。このテーマについて中国政府は、70年代末から80年代初頭にかけて「反右派闘争は拡大化されすぎた」という歴史的な結論を出しました。反右派闘争を何らかの芸術的方法で描くことについて完全に禁止はしないが、あまり歓迎はしないという態度をとっています。

━━━映画化や撮影に関して苦労されることはなかったですか?

『無言歌』の出資は香港・フランス・ベルギーで中国の制作会社は入っていません。このテーマで中国の映画館で公開されることはありえないのです。その反面、中国の映画館で公開されることを念頭に置かないために自由度がかなり高まり、あまり制限をつけないで済むので、自分たちの好きなように計画して撮ることができました。

中華人民共和国ができて最初の30年の間に様々な芸術作品の中で当時の状態をリアルに反映させることはなかなかできない時代でした。まだその最中にあった、歴史的には空白の時代です。今の時代は完全な自由ではないけれど、一定の自由度はあります。昔と比べると自由度がある分、描けなかった過去のことを描くということです。

撮影については、期間は長かったのですが、スタッフやキャストを絞って、具体的に何が行われているかを知られないように、決して宣伝せず密かに進めていきました。撮影の途中に面倒なことはなかったです。

━━━現状は、『無言歌』を中国の人に見てもらえないのでしょうか?

『鉄西区』以降の自分の作品は、国内では正式に上映されていません。この『無言歌』も中国で上映されることはないのですが、そういう状況をどうしても変えなければいけないとは思っていません。インターネットの時代となり、マスメディアの状況は変わっています。様々な方法によって多くの中国人が僕の作品を見てくれます。『鉄西区』のDVDは、海賊版が正規のDVDよりよく売れています。また『無言歌』もフランスのTVで放映されたのをDVDにコピーした海賊版が出ていて、これも売れ行きがいいそうです。営業的な観点から見ると全く利益がなく困ることなのですが、映画自体にとっては多くの観客が見てくれる、観客が数多くいるということが重要です。

━━━実際に反右派闘争の生存者や遺族の方にインタビューされて、監督が感じたこと、また作品にどのように反映されようとしたのでしょうか?

原作となった小説は19の短編からできていますから、それをどういう風に映画に撮っていくかを考えなければなりませんでした。数ヶ月の間さまざまな角度から考えたのですが、例えば資金面の問題やどれだけ自由に撮れるかといったことを考えた末に、夾辺溝事件で収容所に送られた右派の人たちの3年間から最後の3ヶ月だけを残すことにしたのです。教育農場にいた人たちが明水(ミンシェイ)に移された後の3ヶ月、解放され家に帰れるまでの3ヶ月に焦点を当てて撮ることにしました。そうなると、ヤン・シェンホイさんの小説の中のディテールだけでは足りないことが非常に多く。その部分をもっと詳しくインタビューする必要があったわけです。インタビューをすることで、様々なことが明らかになり、一次資料を手に入れることができました。例えば、ペニンシュルという場所に着いたばかりの2枚のスナップ写真。それから右派のある人が死ぬ前に家族にあてて書いた手紙(映画ではその一部が名前を変えて使用)も見つかりました。

━━━作品を作る過程やインタビューの中で、監督が心がけたことは何ですか?

重要だったのは、この物語をどういう方法で撮るかということでした。歴史に対する物語をどう語るのかを探っていったわけです。普通の歴史映画と違うものを目指していたので、それは突き詰めれば監督である自分がどう歴史に向き合うか、また自分が向き合った歴史を観客がどう捉えるか、そこを考えていました。普通の歴史物にあるようなある一人の人物を川の流れのように語るやり方ではなく、この映画では様々な人の記憶の断片、その瞬間、その場所を描くこと。いろいろな人の体験を集めて、その断片を重ね合わせて物語を構成するスタイルにしました。

多くの人にインタビューをする中で、既に50年前の話ですから鮮明に覚えているわけではないけれど、彼らが何について忘れないで覚えているか、何が彼らにとって強い記憶として残っているか、それがカギになると思いました。彼らにとって強力なものを取り出してきて、未だ解けない謎だと思っているようなことを掴む、それで映画のスタイルができあがってくるのではないかと。そこを重要視してインタビューを進めていきました。

━━━監督にとって、一番印象に残ったインタビューを教えてください。

ラストシーンとも関係あることですが、インタビューする中で最初から多くを語ってくれない人がいました。一ヶ月後再訪して一緒にご飯を食べたりしていると、突然シーンとなって彼の感情を制御できない雰囲気で僕に訴えてきたのです。それは「初めて死体を埋めたときの自分の感覚が君に分かるか。」と。当時死体を埋める役目を担っていたわけですが、ある人が亡くなると布団から取り出し、布団も衣服も剥いで裸体のまま運び、谷間に埋めるのです。二人組で裸体を運んで埋めるとき、鳥の声にはっとして自分たちが運んでいるのは人なんだと、これは決して羊や他の動物ではないのだと、その感覚は忘れられないのだと語ってくれました。

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「中国では上映されないことで制限なく自由に撮れる。」と逆転の発想で、反右派闘争の歴史に向かい合ったというワン・ビン監督。「政治映画ではない」と言い切り、今だから光を当てることができる歴史に監督自身が向き合った作品を、我々がどう捉えるのか。110人ものインタビューから忘れざる瞬間を明らかにし、時を経て甦った「生きた証」の記憶を見逃すわけにはいくまい。