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『無言歌』ワン・ビン監督インタビュー

mugon3.jpg全3部545分に及ぶ、衰退する軍需工場と街や労働者を描いた『鉄西区』で山形ドキュメンタリー映画祭最高賞をはじめ世界の映画賞を獲得し、その存在を知らしめた中国のワン・ビン監督。初の劇映画となる『無言歌』全国順次公開、および全作一挙上映企画に合わせて初来阪し、未だ中国のタブーである反右派運動をテーマにした『無言歌』のインタビューに応えてくれた。

 

━━━『無言歌』のテーマである反右派闘争は監督が生まれる10年ぐらい前の話ですが、かなり以前から興味を持っていたのですか?

この映画を撮る決定的な動機となったのが、ヤン・シエンホイさんの小説『夾辺溝の記録』を読んだことです。この小説で書かれていた様々な人物や運命に大変感動を覚えました。実は小説を読む以前にも反右派闘争について知っていました。自分の身の周りにも、1970年末から1980年初頭にかけての文化革命時の右派が存在しています。

そして、この映画を撮るきっかけが立ち上がってから様々な準備を始めました。主に夾辺溝事件と呼ばれるこのときの事件について、様々な資料集めをし、数多くの人にインタビューしていきました。生き残った人たち、家族の人や当時の収容所の看守の人たちのインタビューを通じてより具体的に当時の事件を知ったのです。

反右派闘争のプロセスについては、90年代はじめから約10年間にわたって、右派分子と呼ばれた人が、当時の反右派闘争を振り返って書いた本が多数出版されました。映画の準備に入ってからこれらの書籍を読み、だんだんと反右派闘争の映画が撮れると自信を持ったわけです。

 

━━━.今回ドキュメンタリーではなく、劇映画として撮った意図は何ですか?

劇映画とドキュメンタリーに分かれてはいますが、学校ではほとんどフィクションを勉強しました。撮り方もフィクションの勉強をしたのですが、卒業してからフィクションを撮るような資金はなかなかなかったので、比較的資金がなくても撮りやすいドキュメンタリーに入っていきました。03年ぐらいですが『鉄西区』を撮ったあとで、『無言歌』ではない別の劇映画を撮る企画があり、その脚本を書くつもりでパリに飛ぶ飛行機でこの『夾辺溝の記録』を読んだのです。小説にとても感動したので、前の企画は置いて、この『無言歌』を撮ろうと決めました。

━━━反右派闘争は中国でタブー視されているようですが、原作の『夾辺溝の記録』の出版時の状況はどうだったのですか?

原作『夾辺溝の記録』は、出版されたとき苦難に見舞われました。短編集ではなく、短編をポツリポツリと時間を置いて一作ずつ文学雑誌に発表する方法をとりました。19の短編を集めて出版されたときは発禁になりましたが、出版社を変えてまた出版したのです。このテーマについて中国政府は、70年代末から80年代初頭にかけて「反右派闘争は拡大化されすぎた」という歴史的な結論を出しました。反右派闘争を何らかの芸術的方法で描くことについて完全に禁止はしないが、あまり歓迎はしないという態度をとっています。

━━━映画化や撮影に関して苦労されることはなかったですか?

『無言歌』の出資は香港・フランス・ベルギーで中国の制作会社は入っていません。このテーマで中国の映画館で公開されることはありえないのです。その反面、中国の映画館で公開されることを念頭に置かないために自由度がかなり高まり、あまり制限をつけないで済むので、自分たちの好きなように計画して撮ることができました。

中華人民共和国ができて最初の30年の間に様々な芸術作品の中で当時の状態をリアルに反映させることはなかなかできない時代でした。まだその最中にあった、歴史的には空白の時代です。今の時代は完全な自由ではないけれど、一定の自由度はあります。昔と比べると自由度がある分、描けなかった過去のことを描くということです。

撮影については、期間は長かったのですが、スタッフやキャストを絞って、具体的に何が行われているかを知られないように、決して宣伝せず密かに進めていきました。撮影の途中に面倒なことはなかったです。

━━━現状は、『無言歌』を中国の人に見てもらえないのでしょうか?

『鉄西区』以降の自分の作品は、国内では正式に上映されていません。この『無言歌』も中国で上映されることはないのですが、そういう状況をどうしても変えなければいけないとは思っていません。インターネットの時代となり、マスメディアの状況は変わっています。様々な方法によって多くの中国人が僕の作品を見てくれます。『鉄西区』のDVDは、海賊版が正規のDVDよりよく売れています。また『無言歌』もフランスのTVで放映されたのをDVDにコピーした海賊版が出ていて、これも売れ行きがいいそうです。営業的な観点から見ると全く利益がなく困ることなのですが、映画自体にとっては多くの観客が見てくれる、観客が数多くいるということが重要です。

━━━実際に反右派闘争の生存者や遺族の方にインタビューされて、監督が感じたこと、また作品にどのように反映されようとしたのでしょうか?

原作となった小説は19の短編からできていますから、それをどういう風に映画に撮っていくかを考えなければなりませんでした。数ヶ月の間さまざまな角度から考えたのですが、例えば資金面の問題やどれだけ自由に撮れるかといったことを考えた末に、夾辺溝事件で収容所に送られた右派の人たちの3年間から最後の3ヶ月だけを残すことにしたのです。教育農場にいた人たちが明水(ミンシェイ)に移された後の3ヶ月、解放され家に帰れるまでの3ヶ月に焦点を当てて撮ることにしました。そうなると、ヤン・シェンホイさんの小説の中のディテールだけでは足りないことが非常に多く。その部分をもっと詳しくインタビューする必要があったわけです。インタビューをすることで、様々なことが明らかになり、一次資料を手に入れることができました。例えば、ペニンシュルという場所に着いたばかりの2枚のスナップ写真。それから右派のある人が死ぬ前に家族にあてて書いた手紙(映画ではその一部が名前を変えて使用)も見つかりました。

━━━作品を作る過程やインタビューの中で、監督が心がけたことは何ですか?

重要だったのは、この物語をどういう方法で撮るかということでした。歴史に対する物語をどう語るのかを探っていったわけです。普通の歴史映画と違うものを目指していたので、それは突き詰めれば監督である自分がどう歴史に向き合うか、また自分が向き合った歴史を観客がどう捉えるか、そこを考えていました。普通の歴史物にあるようなある一人の人物を川の流れのように語るやり方ではなく、この映画では様々な人の記憶の断片、その瞬間、その場所を描くこと。いろいろな人の体験を集めて、その断片を重ね合わせて物語を構成するスタイルにしました。

多くの人にインタビューをする中で、既に50年前の話ですから鮮明に覚えているわけではないけれど、彼らが何について忘れないで覚えているか、何が彼らにとって強い記憶として残っているか、それがカギになると思いました。彼らにとって強力なものを取り出してきて、未だ解けない謎だと思っているようなことを掴む、それで映画のスタイルができあがってくるのではないかと。そこを重要視してインタビューを進めていきました。

━━━監督にとって、一番印象に残ったインタビューを教えてください。

ラストシーンとも関係あることですが、インタビューする中で最初から多くを語ってくれない人がいました。一ヶ月後再訪して一緒にご飯を食べたりしていると、突然シーンとなって彼の感情を制御できない雰囲気で僕に訴えてきたのです。それは「初めて死体を埋めたときの自分の感覚が君に分かるか。」と。当時死体を埋める役目を担っていたわけですが、ある人が亡くなると布団から取り出し、布団も衣服も剥いで裸体のまま運び、谷間に埋めるのです。二人組で裸体を運んで埋めるとき、鳥の声にはっとして自分たちが運んでいるのは人なんだと、これは決して羊や他の動物ではないのだと、その感覚は忘れられないのだと語ってくれました。

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「中国では上映されないことで制限なく自由に撮れる。」と逆転の発想で、反右派闘争の歴史に向かい合ったというワン・ビン監督。「政治映画ではない」と言い切り、今だから光を当てることができる歴史に監督自身が向き合った作品を、我々がどう捉えるのか。110人ものインタビューから忘れざる瞬間を明らかにし、時を経て甦った「生きた証」の記憶を見逃すわけにはいくまい。